動物のモノサシ人間のモノサシ

心臓の鼓動回数や寿命で「ネズミの1日はゾウの一時間だ」と言ってる本はフィクション、ノンフィクション問わずたくさんありますが、あれは何だか胡散臭く感じてしまいます。寿命と体感時間は違うでしょ、と。
ちょっと前に織り姫と彦星が(星の寿命から換算して)「数秒ごとに会ってる」とか言ってる本を読んだのですが、だから体感時間と寿命は違うんじゃないかと……何年寿命があろうと一年は一年。今まで何億回会おうとも一年に1日は一年に1日。それを計算してしまうのは……まぁこれは真面目な内容の本ではなかったのでおふざけではあるのですが……。
仮に不老不死になった人間が万年生きたとしても、その人間にとっての1日は他の人間の百日なんてことはないわけで。(人の百倍スローに生きていたとするなら話は別ですが)
でも厄介なのが「寿命モノサシ論」というよく考えれば成り立たっていない論理が世間的にまかり通っていることです。……あれだ、某ベストセラーが悪いのか。(ぇ
「寿命モノサシ」は「動物を基準にしたふりをした人間のモノサシ」でしかないんじゃないかなと思います。人間が人間である以上人間の枠を飛び越えて人外になれたりはしないので、人間が「動物のモノサシ」を理解するのはとても難しいことなのだと思います。
私は暇さえあれば何でも読むのですが、難しいことを書き並べたてたものは大概作者のモノサシで図られ切り取られた世界のスクラップなような気がします。全てがある意味でおいては間違いで、全てがある意味でおいては真実を写してる。、
社会構造論、人間の思考論、文学論、その他もろもろ。『論』というモノは、哲学とか倫理とか思考とかそんな言葉を借りた『現代の宗教』のような気がします。筆者の、学者の、哲学者の盲信する『世界の真実』。
誰もが多分知っている有名どころを言えば『社会契約論』とかがそうで、根拠なんて歴史的にどこにもない論なのですが、影響された人間が社会革命を起こすほど、宗教的です。
現代になって影響力が薄れた今では、論文に『神』という全知全能で何でもありなチートキャラはほとんど出なくなりましたが、近代以前の論文に『神』が出てくることはそう珍しい事ではありません。
むしろ何か論を語る時、宗教的である方が多いような気がします。『神の手』なんかいい例です。あれはもう既に否定されていますが、今の経済論もそろそろ否定されそうですが。
こんな自己論もある意味、宗教的じゃないのかなと考えてしまい何だか語っていてすっきりしないのですが……世界を斜めからみる癖がついてしまうと素直な人が羨ましくなります。なりたいとは思わないけれど。